松本城(以前は、深志城
といった)は姫路城(兵庫県)や松江城(島根県)、
彦根城(滋賀県)、犬山城(愛知県)とともに国宝として指定されている。
五重六階の天守をもち、城郭としては日本最古のものである。
文禄(1593〜1594)年間に建てられている。
史跡 金石城跡しせきかねいしじょうあと
国指定 平成七年三月二八日
平成二八年三月一日
(追加)
金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。東流する金石川に沿って、
高低差のある細長い平坦地に造られ、東西約400mの敷地が石垣で区画構成されている。東端
から120mほどにある櫓門を抜け、枡形部を過ぎて対馬宗家関係資料など複数の絵図に描か
れた大階段を上がると、館があった平地に出る。
この地に居館が置かれたのは一六世紀のことで、発端は享禄元(一五二八)年に起きた一族の
内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し、金石原の地に難を逃れた一四代宗盛賢 (のち
の将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。
ここが体裁を整え、城となったのは、一七世紀後半のことであった。将盛が屋形を築いてから
一三〇年ほどのち、第三代藩主宗義真の治世において城下に大火が相次いだ。ことに万治二(一六
五九)年と寛文元(一六六一)年に起きた大火はすさまじく、町に甚大な被害を与えた。真
は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易にも支え
られて金石屋形の拡張と改修も行った。国分寺を金石原から現在地の天道茂に移して、城壁を
整え櫓を建て、現在の城の体裁が完成した。こうして寛文五~九(一六六九)年ごろにかけて整
備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。なお、その後、義真は延宝六(一
六七八)年に桟原に居館を造って住まいを移し、幕末に至った。
文化八(1811)年に易地聘礼で朝鮮通信使が来島した際には、幕府上使小笠原大膳大
夫 (小倉城主)の宿館として用いられた。そのため新たに各種施設を多く建築しているが、詳細
な城内の様子を描いた絵図が対馬宗家関係資料に残されている。
城の西にある、かつて「心字池」と呼ばれた旧金石城庭園は、対馬藩士で倭館窯での作陶にも
携わった中庭茂三が、藩主の命により一七世紀末に作ったと推定される庭園で、平成一九(2
007)年に国から名勝の指定を受けた。 対馬市教育委員会
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