日本の城を訪ねて

城

100名城と呼ばれている城もあるが、その外にもたくさんの城や城あとがある。 城の歴史を訪ねたときの写真や日本の伝統的な建築様式 など、 旅先で偶然出会えた時の記録を残す。
彦根城(滋賀県)丸岡城(福井県)高松城(香川県)
掛川城(静岡県)越前大野城(福井県)松山城(愛媛県)
五稜郭(北海道)米子城(鳥取県)今治城(愛媛県)
金沢城址(石川県)姫路城(兵庫県)松本城(長野県)
白石城(宮城県)竹田城跡(兵庫県)金石城跡(長崎県)
備中松山城(岡山県)忍城(埼玉県)
長浜城(滋賀県)砂沢城(秋田県)
福知山城(京都府)弘前城(青森県)
小峰城(福島県)伊賀上野城(三重県)
若松城(福島県)岡山城(岡山県)
八王子城(東京都)松江城(島根県)
富山城(富山県)丸亀城(香川県)
大垣城(岐阜県)高松城(香川県)






彦根城(滋賀県)

彦根城(滋賀県)

 姫路城や松本城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている彦根城。 天守や櫓など重要文化財である。また、下屋敷の玄宮園なども当時の状況 を非常によくとどめている。

掛川城(静岡県)

掛川城(静岡県)

 掛川城かけがわじょう 
 文明年間(1469~1486)頃 今川氏の家臣が、掛川古城を築いた ことに始まります。 永正10年(1513) 頃に現在の位置に移り、今川氏の遠 江支配の拠点となりました。 永正10年(1513)ごろに現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。 永禄12年(1569)徳川家康がここに 立てこもった今川氏真を攻め、長期 にわたる攻防の末、掛川城は開城し ました。家康の支配下に入った掛川 城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。 天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下 統一を成し遂げ、脅威であった徳川 家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大 名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。 一豊は、大規模な城域の拡張を行 い近世城郭として整備し、この時初 めて天守閣をつくりました。 その後、掛川城は、松平家・太田 家など徳川譜代の大名11家26代の居 城として、明治維新まで続きました。  (説明版より)

五稜郭(北海道)

五稜郭(北海道)

 昭和27年3月29日指定
 五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、 箱館奉行 配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、 中世ヨーロッパで発達した 城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。 稜堡とよばれる5つの突角が星形の 五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、 郭内には日本伝統建築の 箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。
 安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して 蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の 役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、 翌明治 2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、 明治4年に開拓使 により郭内建物のほとんどが解体され、 大正時代以降は公園として開放されています。
 五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、 幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、 北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。

金沢城址(石川県)

金沢城址(石川県)

 国指定史跡 金沢城跡
 金沢城は犀川と浅野川に挟まれた細長い丘陵地帯である小立野(こだつの)台地の 先端に築かれた平山城(ひらやまじょう)で、本丸の標高は約60m、城下町との標高差 は約30mである。主要な範囲は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、新丸、金谷出丸(かなやでまる) とこれらを取り囲む堀の範囲で、総面積は約30ヘクタールに及ぶ。
 城となる前は加賀一向一揆の拠点として金沢御堂(みどう)が天文15年(1546)に置かれ ていたが、天正8年(1580)に織田信長の重臣柴田勝家の軍勢により攻略され、その指揮下に あった佐久間盛政(さくまもりまさ)が最初の金沢城主になった。その後、天正11年 (1583)に前田利家(まえだとしいえ)が能登七尾から移り城主 となった。 次いで慶長3年(1598)に利家の長子利長(としなが)が城主となり、これ以降、 加賀・能登・越中3カ国(現在の石川県と富山県の大部分)を領し、 江戸時代を通して 最大の大名であった加賀藩前田家の居城として発展した。


金沢城址

  利家、利長時代の城の姿は不明な所が多いが、天正14年 (1586)頃に天守を創建したという史料が残る。現在の本丸、二ノ丸、 三ノ丸などの配置は寛永8年(1631)の大火後に3代藩主前田 利常(としつね)により整備された姿である。宝暦9年(1759)の城下町最大 の大火により城の建物の大半が焼失し、その後は再建されない 建物も多かったが、現存する石川門と三十間長屋は江戸時代に 再建されたもので、鉛瓦(なまりがわら)や海鼠壁(なまこかべ)など金沢城の特色 をよく表す建物 である。
 明治維新を迎えると藩主は城外に移り、城は軍用地となった。 第二次世界大戦後は金沢大学の城内キャンパスとして利用され たが、大学移転後の平成13年(2001)に県営都市公園として一般 に開放され、城郭施設の復元整備が進められている。  金沢城跡は近世城郭としての縄張りや高い技術によって構築された石垣が良好に残る 代表的な近世城郭の一つで あり、近世の大大名の政治権力や築城技術を知るうえで 重要であることから、平成20年(2008)に史跡に指定された。  


金沢城址

  


金沢城址

  


金沢城址

  


金沢城址

  


白石城(宮城県)

白石城(宮城県)

 白石城しろいしじょうは、 宮城県白石市にあった平山城で別名益岡城や枡岡城とも呼ばれて、 関ヶ原の戦い以後、伊達家の片倉氏の居城となっていた。 明治7年に解体されたが、平成7年に三階櫓(天守閣)と大手一ノ門・大手二ノ門が 復元された。

白石城

  白石城「東口門」は、正式には「二ノ丸大手二ノ門」と言い、白石城東側を迂回するように 通った奥州街道沿いの大手口から城内に入り、外曲輪、三ノ丸内の屈折した通路を通り、 二ノ丸へ入る関門であった。
 片倉家開風絵による東口門は、二階に横幅のある格子窓がつき、 その両側に狭間が穿たれている。また、階下両側にも狭間が設けられ、 白石城東側の防衛拠点だった様子がうかがえる。 明治7年(1874年)、白石城解体の際、いったん白石駅前通りの「専念寺 (せんねんじ)」 に売却されたが、明治20年(1887年)東北本線の開通に伴い、白石市本町にある「当信寺 (とうしんじ)」山門として移築された。
 現在の山門は、二階櫓門で二階中央間の表と裏に大きな「眼象窓 (げんじょうまど)」が 各一つ、二階側面には「丸窓」がついている。幕末、この門の二階に鐘もしくは太載を置いて、 時を知らせるため、音の響きをよくするため開けた穴と伝えられ、往時の面影をとどめている。  また、歴史ミュージアムの展示室には、城下町の模型や甲冑、刀剣、火縄銃などが展示されている。


白石城

 鯱


白石城

 城下町


備中松山城(岡山県)

備中松山城(岡山県)

 現存天守閣の残る日本一の山城 備中松山城 びっちゅうまつやまじょう 


備中松山城

 最も高いところに天守の現存する山城(標高430m)。 二層二階の典型的な山城だが、 三層に見えるようにデザインされている。


備中松山城

 


備中松山城

 鯱(しゃちほこ)


長浜城(滋賀県)

長浜城(滋賀県)

 長浜はもと今浜いまはま といい、「バサラ大名」として有名な 京極道誉きょうごくどうよ (佐々木高氏たかうじ)が 室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。 以後、家臣の今浜氏・上坂こうさか氏が 守将として在城したといわれている。
 姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃 小谷おだに (湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、 ここに城を築いて数年間居城とした。 天正11年(1583)の賤ヶ岳しずがたけ の戦では、ここを根拠地として大勝し、 織田信長後継者としての立場を確立した。 秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城したことがある。 江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、 その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。 建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、 その天秤櫓てんびんやぐら (国・重文)や三重の 隅櫓すみやぐらは 当城の遺構といわれている。 また、当市内の大通寺だいつうじ 台所門(市指定建造物)、知善院ちぜんいん 表門(市指定建造物) も当城の遺構として名高い。 この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として 昭和37年に市の指定文化財として指定されている。 城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や 掘立柱ほったてばしら建物跡、 礎石そせき 建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。 しかし、調査は部分的であり、全体の 縄張なわばりや細部の構造については、 未だ解明されていない。    (説明板より)(Map-Code#101 736 861)   

長浜城(滋賀県)


 


長浜城(滋賀県)

 鯱(しゃちほこ)
 


福知山城(京都府)

福知山城(京都府)

 明智光秀が築いたといわれる福知山城は景観の美しさから「日本の歴史公園 100選」や「京都府景観資産」にも登録されています。天守閣内には歴代城主の遺品 等を展示した郷土資料館、城の麓には佐藤太清記念美術館・丹波生活衣館もあります。 … (説明板より) 

福知山城の鯱瓦


 鯱瓦しゃちがわら
高さ150cm、基部たて80cm、よこ45cm  


小峰城(福島県)

小峰城(福島県)

白河駅前に立派な城があるが東北大震災の影響でだいぶ 石垣が崩れていた。5年ぶりに来てみたがまだ、その傷跡は残っていた。 あと10年はかかるだろう。また、くるよ!
 初代白河藩主となった丹羽長重は、寛永6年(1629)から約4年の 歳月をかけ、本丸・二之丸をはじめ、各所に石垣を多用した石垣造の 城郭に大改修しました。現在、地上において確認することができた石垣は、 約2キロメートルを測ります。


若松城(福島県)

若松城


 白壁がだいぶ落ち着いてきたようである。鶴ヶ城と呼ばれていたころに一度見学したことがある。 同名の城があるため、若松城(会津若松城)と呼んでいる。天守閣は郷土博物館として利用されている。 幕末の戊辰戦争では旧幕府派として最後まで抵抗した。そして、有名な白虎隊の歴史がある。


若松城

 荒城の月

 名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城 をモチーフに作詞されたことは 土井晩翠 氏を招いた、音楽祭であきらかと なった。時は昭和21年のことである。
 翌年、有志により詩碑建設会が設立 され、同年6月5日土井晩翠夫妻を 招いた盛大な除幕式が行われた。
 この詩碑には、晩翠氏直筆による 荒城の月1番〜4番までの歌詞が記さ れている。    


若松城


   


若松城


   


八王子城跡(東京都)

八王子城跡(東京都)


八王子の山の中に当時の面影を残す城跡がある。


富山城(富山)

富山城(富山)


富山の駅から10分程度行ったところにお濠に囲まれた立派な城がある。
(Map-Code#40 385 739)


富山城の夜景
富山城の夜景

千歳御門
千歳御門ちとせごもん埋門うずみもん)からの城の夜景

大垣城(岐阜)

大垣城(岐阜)


大垣駅の近くに四重四階の優美なお城である。公園には、初代藩主の戸田氏鉄(うじかね)の鎧兜姿の騎馬像がある。


丸岡城(福井県)

丸岡城


 丸岡城は霞ヶ城ともよばれ、屋根が石瓦で葺かれた大変珍しいお城である。 丸岡の街を見下ろす丘の上に築城されている。


丸岡城の鯱


 


越前大野城(福井県)

越前大野城

 山(亀山)の頂上を平たんにして本丸を作り、その周りに二の丸や三の丸などを配置している、 梯郭式ていかくしきの平山城である。
 


越前大野城


 


越前大野城


 


米子城

米子城


米子城は天正19年(1591年)毛利の一族吉川広家により標高90.5メートルの湊山に四重櫓と縄張りの大たいを作った。 慶長5年(1600年)に領主の中村一忠により、その規模を拡大した。城は、頂上の五重天守と四重櫓を中心とする本丸と 西北野内膳丸、東の二の丸や三の丸など築城した。


姫路城

姫路城

修復された姫路城(2015年10月)
世界遺産の姫路城は平成5年に日本で初めて登録された文化遺産である。 天守閣ややぐら、門、石垣や濠などが今でもきれいに保存され ている木造建築である。

修復の天守閣
修復の様子(2013年7月)

姫路城二の丸
二の丸の様子

姫路城の鯱
鯱(しゃち)
瓦葺の屋根の大棟(おおむね)の両端につけられる飾り の一種で、鬼がわらと同様に守り神とされている。姿は魚で 頭は虎(とら)、尾びれは常に上を向き、背中には幾重もの鋭い とげを持っているという想像上の動物を模している。

今の鯱
現在の鯱

姫路城の甲冑(かっちゅう)
甲冑(かっちゅう)
武士が戦いのときに身につける防具である。鍛鉄(たんてつ)、 皮革、金具、漆工芸、組紐(くみひも)など、さまざまな分野 の技術を駆使した彩り豊かで美しい日本の甲冑は、現在では歴 史資料として珍重されている。

姫路城の夜景
 姫路城のライトアップ(2017/8/4)

姫路城の夜景
 姫路城のライトアップ(2017/8/4)

竹田城跡

竹田城跡


 竹田城は別名「虎臥城(とらふすじょう)」虎が臥しているよう に見えるためである。この山城の遺跡は秋から冬にかけて 霧が発生して雲海に包まれた天空の城を思わせるようである。 このような風景から日本の「マチュピチュ」とも言われている。
(Map-Code#347 759 834)


藤和峠
早朝の藤和峠
(Map-Code#347 816 440)

藤和峠
早朝の藤和峠
 もう先客がマイクロバスで来ていた。

忍城(埼玉県)

忍城


 忍城(おしじょう)は文明10年(1478)頃、成田顕泰(あきやす)により 築城され「守りやすく攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による 忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられた「忍の浮城(うきじろ)」 とも称されたという。


砂沢城(秋田県)

砂沢城


  砂沢城は藤原内記秀盛の居館である。天正年間(1580頃)の 安東秋田氏の内紛後に五城目(五十目)地域支配するように なった藤原氏は五十目氏を称するようになる。その際「市」も馬場目城下から 五城目に移ったとされる。・・・
 慶長6年(1601)秋田氏の転封により五十目氏もこの地を去り 城は破却されたが「市」や「座」を保護し五城目の基礎を作った。 五十目氏の居館とした大切な史跡である。      (説明板より)


弘前城(青森県)

弘前城


 弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に 二代藩主津軽信枚にって築かれた城である。  面積約四十九万二千平方メートル(約十四万九千坪)を有し、本丸、 二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭によりなり三重の濠と 土塁でめぐらされた城郭である。  現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が 残されており、いずれも重要文化財に指定されている。 弘前城には築城当初十棟の城門があったとされているが、 現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、 四の丸北門(亀甲門)の五棟が残されている。  弘前城の城門は周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた 二層の櫓門であるが、門の前面に特別の門(高麗門)などを 設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な 素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の 櫓門として注目されている。     説明版より


伊賀上野城(三重県)

伊賀上野城


 戦国時代の城造り名人である藤堂高虎によって造られた。昭和10年に 天守閣が木造3層として復興された。城内は藤堂藩に関係する文化資料を 展示している。


岡山城

岡山城

 岡山城は宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、江戸時代には 岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となった。城跡は、大半が市街地となり、 本丸も学校用地に転用された。昭和20年の岡山空襲で天守と石山門が消失し、 月見櫓と西手櫓が存在するだけになった。
 この本丸は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、昭和41年 に天守閣が復元され観光施設となった。
Map-code#19 892 434

廊下門(ろうかもん)
廊下門(ろうかもん)
 上屋は本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ城主の通路 として、使われたためこう呼ばれた。昭和41年に鉄筋コンクリートで 再建された。

岡山城の鯱
鯱(しゃちほこ)
 非常にきれいな鯱。

松江城

松江城

 松江城は慶長12年(1607)から足かけ5年の歳月を費やし て堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって築かれた。
以来、堀尾氏3代、京極氏(きょうごく)の治世を経て寛永15年 (1638)からは松平氏が城主となり、その間一度も戦乱に巻き 込まれることもなく明治維新を迎えた。山陰地方で唯一、 天守を現存する貴重な城郭です。 
Map-code#163 501 552

太鼓櫓
太鼓櫓(たいこやぐら)
 城壁の見事なお城である。この櫓の手前には、46メートル四方の 馬溜があり、入口には大手柵門や大手門がある。また、 13メートルの石垣や堀があり、敵兵の直進を防いでいた。出撃の際には、 この馬溜に城兵を待機させるなどの機能があったようである。

庭園
城壁の周りは、庭園風に整備されつつある。
 

丸亀城(香川)

丸亀城(香川)

 丸亀駅から10分程度南へ歩くと、山の上に城が見えてくる。内堀で囲まれた立派な城である。 大手二の門より入城して、日本一と言われる城壁の下を歩き天守閣へ向かう。 桜がとっても素晴らしい城である。


丸亀城(香川)





高松城(香川)

高松城(香川)

 ”讃州さぬきの高松さまは城が見えます波の上”と歌われている高松城は 天正16年(1588)生駒親正公が築城に着手し、生駒家4代54年間、松平家 11代228年間(初代は水戸光圀の兄松平ョ重)にわたり居城した城跡の一部で 、全国でもまれな水城(海城)として有名です。
 園内(総面積8万平方メートル)には3層5階の天守閣そびえ、要所には約20の櫓 があってその威容を誇っていましたが、現在では艮櫓、月見櫓、渡櫓および水手御門が残り、 いずれも重要文化財の指定を受けています。また、庭園には緑したたる老松、名木が立ちならぶなかに 石燈籠、手水鉢、大飛石等が配置され、昔の大名の権勢がしのばれます。
 松平藩時代の披雲閣は、政庁・住居として使用されていましたが、現在、じむしょのある披雲閣は 、大正時代に建てられたもので、茶会・会議等で広く一般に利用されています。


高松城(香川)





高松城(香川)





松山城(愛媛)

松山城(愛媛)


 伊予松山城は、城跡が公園として整備され、天守閣を含め櫓や門などの城郭の遺構がのこっている。 


松山城(城壁)


 二ノ丸跡から本丸への途中の城壁。


松山城(戸無門)

 戸無門
 


松山城(隠門続櫓)

 隠門続櫓
 


松山城(本丸)

 本丸
 


今治城(愛媛)

今治城


 今治城跡は二ノ丸や武家屋敷、侍屋敷、城門、櫓など往時は広大な造りだったようである。  


今治城


 


今治城


 


松本城(長野県)

松本城


 松本城(以前は、深志城ふかしじょう といった)は姫路城(兵庫県)や松江城(島根県)、 彦根城(滋賀県)、犬山城(愛知県)とともに国宝として指定されている。 五重六階の天守をもち、城郭としては日本最古のものである。 文禄(1593〜1594)年間に建てられている。


金石城跡(長崎県)

金石城跡


 史跡 金石城跡しせきかねいしじょうあと

      国指定 平成七年三月二八日
          平成二八年三月一日
          (追加)
 金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。東流する金石川に沿って、 高低差のある細長い平坦地に造られ、東西約400mの敷地が石垣で区画構成されている。東端 から120mほどにある櫓門を抜け、枡形部を過ぎて対馬宗家関係資料など複数の絵図に描か れた大階段を上がると、館があった平地に出る。
 この地に居館が置かれたのは一六世紀のことで、発端は享禄元(一五二八)年に起きた一族の 内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し、金石原の地に難を逃れた一四代宗盛賢 (のち の将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。
 ここが体裁を整え、城となったのは、一七世紀後半のことであった。将盛が屋形を築いてから 一三〇年ほどのち、第三代藩主宗義真の治世において城下に大火が相次いだ。ことに万治二(一六 五九)年と寛文元(一六六一)年に起きた大火はすさまじく、町に甚大な被害を与えた。真 は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易にも支え られて金石屋形の拡張と改修も行った。国分寺を金石原から現在地の天道茂に移して、城壁を 整え櫓を建て、現在の城の体裁が完成した。こうして寛文五~九(一六六九)年ごろにかけて整 備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。なお、その後、義真は延宝六(一 六七八)年に桟原に居館を造って住まいを移し、幕末に至った。
 文化八(1811)年に易地聘礼で朝鮮通信使が来島した際には、幕府上使小笠原大膳大 夫 (小倉城主)の宿館として用いられた。そのため新たに各種施設を多く建築しているが、詳細 な城内の様子を描いた絵図が対馬宗家関係資料に残されている。
 城の西にある、かつて「心字池」と呼ばれた旧金石城庭園は、対馬藩士で倭館窯での作陶にも 携わった中庭茂三が、藩主の命により一七世紀末に作ったと推定される庭園で、平成一九(2 007)年に国から名勝の指定を受けた。         対馬市教育委員会