萬松陰

萬松陰

 史跡 対馬藩主宗家墓所つしまはんしゅそうけぼしょ
     国指定 昭和六〇年二月一八日
 歴代の対馬藩主と正室および一族の墓所である。元和元(一六 一五)年に宗家一九代で初代対馬藩主の義智が死去し、居館とし ていた 金石屋形かねいしやかたの 西に墓所を設けた。寺として松音寺を建立した が、元和七〜八年頃に法号に因んで 「萬松院ばんしょういん(万松院 )」 と改め、 宗家の菩提寺となった。
 三つの 御霊屋おたまやがあり、 かみ御霊屋には義智から 宗家三三代義和よしよりま での藩主と正室、中御霊屋と下御霊屋には十代貞国と側室および 童子の墓が並ぶ。また、本堂西側の池泉庭奥には宗家出身者やー 族を葬ったうら御霊屋がある。
 元禄年間以降に起きた大火で建物を焼失しており、現在の本堂 および庫裏くりは 明治一三(一八八〇)年に再建されたものである。
焼失を免れてきた山門は、江戸時代前期の建立と考えられる。
 花崗岩製の大きな墓石や広い墓域から、江戸時代の日朝外交を 担った宗家の威信や隆盛を うかがうことができる。 墓所は鏡積みを多用した石垣と石塀で区画、構成され 壮麗そうれいである。  対馬市教育委員会

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 本堂
 
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 徳川将軍の大位牌
 
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 本堂には朝鮮国王から寄贈された三具足(仏具:花瓶、香炉、つるの燭台)がある。
 
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 さらに132段の 百雁木ひゃくがんぎと 言われる石段が幽玄れいげん な雰囲気をかもし出しています。 この石段を上った場所に宗家一族の墓所である 御霊屋おたまやがあり、 巨大な墓がずらりと荘厳な雰囲気のなか立ち並んでいます。 その規模は大大名なみの規模で、金沢市の前田藩墓地、 萩市の毛利藩墓地とともに日本三大墓地の一つと言われている。
 
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 墓所の手前に樹齢1200年と言われる萬松陰の大スギがある
 
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 上御霊屋かみおたまや
 墓所の北端にあり、各御霊屋の中でもっとも高い位置に 設けられている。沢で東西に分かれた敷地には、宗家19 代から32代までの藩主(当主)とその夫人や子の墓が建 てられている。東部には文禄慶長の役に際して朝鮮との交 渉や戦での先陣に立ち、万松院の由来となった宗氏19代・ 初代藩主宗義智そうよしとしの墓がある。
 墓は他の花崗岩製の五輪塔とは異なり、 砂岩製の宝篋印ほうきょういん 塔で江戸初期の様式をよく示している。並ぶ墓石のうち、 国書偽造に端を発する「柳川事件」の際の藩主で、日朝修 好体制を確立させ、 佐須さす銀山の開発 と藩政の基盤作りを成 した20代・第2代 藩主義成よしなりと夫人、 そして桟原城さじきばらじょうの 築造や金石城の拡張、 お船江ふなえ矢来やらい建設 など現代の町並みを形成する城下町の整備を17世紀後半に敢行し、中興の祖と も評されるべき一代・第三代藩主 義真よしざねと夫人の墓は格別 に大きく威容を誇る。対馬藩の倭館貿易が好況だった時代 を物語る遺構である。
 西部には幕末以降の当主が墓を並べており、現在に連な る宗家の 歴史と変遷をうかがえる。
 
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