即清寺(そくせいじ)

即清寺

市指定史跡 愛宕山明王院即清寺

即清寺は真言宗の寺院で、本尊は 不空羂索 大念 怒明 王ふ くうけんじゃくだいふんである。
 「元慶年間(八七七〜八八五)元和尚の開創に より、建久年間源頼朝が畠山重忠に命じて造営し、 また 印融和尚いんゆう おしょう中興ちゅうこうした とも伝え、鎌倉から秩父 間のいわゆる鎌倉古道に面する 要衝ようしょうのため、中世 期にはかなりの隆盛を極めたものと考えられる。
 大永年間(1521〜1528)に火災にあっ たが直後に再建され、八王子城主 北条氏照ほうじょうじてるにも信仰された。
江戸時代は  明王堂領みょうおうどうりょう および愛宕権現あたごごんげん別当寺べっとうじ
で、明王堂領三石の 状が寄せられた。
明治三十一年火災にかかり、明治三十九年に 庫裡くりが、 また昭和十四年に本堂、 鐘楼堂しょうろうどうが再建されだ。
 境内には 十三仏結衆板碑じゅうさんぶつけっしゅういたび 、文人根岸典則が撰 文し、小林天淵の筆による古碑ひこ・古仏等、また、吉 野山園地への山道に新四国八十八ヶ所霊場がある。
 昭和三十年十一月三日 指定
           青梅市教育委員会

歴史との出会い
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即清寺

 山内新四国八十八ヶ所霊場開創の由来

 安政年間、当山第三十二世融慧和尚は明治 維新にかかる幕末の不穏な時代を迎えたな かで、少しでも平穏な世を願い四国遍路を 企図、満願。各札所の本尊の写しと浄土を 戴き、守護愛宕山の聖地に四国霊場開創を 発願された。
文久二年七月図らずも病床に籠り、再起の 日な惜しくも遷化されてしまい、 第三十四世融雅、先師の遺業を継承、世話 人として野村勘兵衛、岩田傳次郎の両氏を 選任、慶応元年八月より同年に至る間、 地区内の檀信徒を始め諸方の信者に志納を 請い、総額壱千四両弐分壱朱余の浄財をも って、石碑等を安置し山内新四国八十八ヶ 所霊場が開創された。
茲に先人の偉業を偲び、大師信仰開花の 歓びとともに、多くの方が山内遍路をされ お大師様の御加護あらんことを祈念いたし ます。              合掌
 同行二人 南無大師遍照金剛
    平成十五年五月吉日
 

即清寺

 

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