子規堂
![子規堂](IMG_5178.jpg)
史跡
子規堂
へようおいでたなもし
正岡子規、本名正岡
常規。
慶応三年九月
七日松山市に生まれる。明治三十五年九月
十九日三十六歳で死去。 子規十七歳、我
国に入って来たベースボールを幼名から
升と野の球とをかけ合わせて
野球と云う言葉
をつくったと云われる。やがて松山の地に
始めて野球を伝えた。明治二十五年日本新聞社の社員となる。
日清戦争に従軍記者で活躍、二十八年東京時代の学友であった夏
目漱石が松山中学の教壇にたっていた。
漱石の下宿、
愚陀仏庵に子規が同居し、
この時松山の新派俳句は興ったと云われてい
る。新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」
等によって子規は日本新派俳句を全国に普
及させた。また叙事文、写生文を提唱し当
時の小説家達に影響を与えた。子規堂は文
学なかまであった正宗寺住職
仏海禅師が業
績を記念して子規が十七歳で上京するまで
の住居を、寺の中にのこした。子規堂前の
「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊っちゃん」
でも有名である。
アルバム
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![子規堂](IMG_5181.jpg)
子規居士?筆
九月十八日午前、碧梧桐来る。電話にて虚子を呼ぶ。畫板に紙貼りたる
を持来らしめ「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」と書す。次で「をととひの
へちまの水も取らざりき」次で「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」の三句を
書す。絶筆なり。この後多く言はず。虚子、秀真、烏堂、鼠骨その他
来る。虚子残りて夜を待す。九月十九日午前1時、蚊帳の中を窺ふに
己に寂たり、母、妹、鷹見夫人、虚子之を呼ぶ。魂己に天外に飛び、
僅に額上に微温を存するのみ。羯南、碧梧桐その他報を聞きて
到る。子規全集(改造社) 子規居士年譜(明治35年36歳)より
![子規堂](IMG_5187.jpg)
![子規堂](IMG_5188.jpg)
![子規堂](IMG_5162.jpg)
停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。
乗り込んで見るとマッチ箱の様汽車だ。
ごろごろと五分許り動いたと思ったら、
もう降りなければならない、道理で切符
が安いと思った。たった三銭である。
小説『坊っちやん』より
![子規堂](IMG_5169.jpg)
坊っちゃん列車の客車
この箱車は、いまから八十年ほど前、伊豫鉄道
株式會社が創業当初の明治21年10月28
日に、松山〜三津間(3.9哩 料金3銭5厘)に開
通した我国最初の軽便鉄道の客車であります。
夏目漱石先生の小説、”坊っちゃん"では「マッチ
箱のような汽車だ」といわれ、以来"坊っちゃん列車"
の愛稱で全国に知られています(この列
車の機関車は梅津寺遊園地に展示してある)何
しろ米が一升四銭五厘という時代に独乙から組
立てたまゝ木箱に詰めて、機関車と共に運ばれ
てきたものですが、あれから五十年間、雨の日
も風の日も走り続け、ある時は強い風に吹き倒
されたり、又ある時には牛に衝突して脱線したり
"枯野原汽車に化けたる狸あり 漱石”など‥・、
いま考へると嘘のようなほんとうの逸話がたく
さんあります。文化はレールと共に伸びるとい
われるが、子規も漱石もこの客車で道後温泉へ
通ったものと思うと、気が遠くなるような郷愁
と時代の流れを感じさせられるのであります。
![子規堂](IMG_5170.jpg)
子規が乗り漱石が乗り三津に行き
道後に行きし汽車かこの汽車
越智 水草
伊豫鉄道株式會社 寄贈
富 田 狸 通 氏 文
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枯野原 汽車に化けたる 狸あり
漱石
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千代の富士関
1045勝前人未到の記録を成し遂げた
58代横綱千代の富士貢
現九重親方ここにその栄誉をたたえ
現役時代から深交のあった正宗寺代二十世住職により
子規の句をそえ 記念し建立する
![子規堂](IMG_5173.jpg)
子規と俳句と野球
正岡子規、本名正岡
常規
幼名を升慶応
三年九月十七日松山市新町に生まれる。明治三十五年九月
十九日おしくも三十六歳の若さで死去。外祖父大原観山に
ついて漢文を学び漢詩をつくる。松山中学を中退し上京して
大学予備門に入学する。この時子規十七歳、丁度我が国に入
ってまたベース・ボールを自分の幼名から升(のぼる)と野球とを
かけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。子規はこの野球
に熱中し、やがて松山の地に始めて野球を伝えた 俳句では俳壇の
革新を叫び旧派俳壇を、おどろかせた。明治二十五年日本新聞
社の社員となる日清戦争には従軍記者として活躍、二十八年東京
時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教師として教壇にたっ
ていた。その漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新
派俳句は興ったと云われている。
やがて病床についたままと云う日が続いたが、新聞「日本」俳句雜誌
「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させ
たのである。また叙事文、写生文を提唱して当時の小説家
達に大きな影響を与えた。子規堂は、もとは子規の友人で
もあり文学なかまでもあった正宗寺住職 仏海禅師が
子規の業績を記念して子規が十七歳で上京するまで住
んでいた住居を寺の中にのこしたのがそのおこりである。