武蔵誕生の地
![武蔵誕生の地](IMG_4921.jpg)
宮本武蔵 由来
剣聖宮本武蔵の自筆の書 五輪書 の序文に時、寛永二十年十月上
旬のころ 生国播磨の武士新免武
蔵守、藤原の玄信、年つもって六十
とあり、また、平野庸修が宝暦年
間に書いた 播磨鑑には、宮本
武蔵 揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産也
とある。これらの記述から當宮本は
武蔵生誕の地と考えられるが、残
念なことに安未年間と明治二十年の
大火で村の大半が罹災し、系図や古
文書が焼失したのは残念である
ここに、宮本武蔵顕彰碑を建て、
永く武蔵の遺徳を讃える。
平成四年五月 宮本武蔵顕彰会 太子町教育委員会 太子町観光協会
![武蔵誕生の地](IMG_4933c.jpg)
宮本武蔵 産湯井戸
宝暦十二年(1762)に書かれた地誌『播磨鑑はりまかがみ』に「宮本武蔵
揖東郡鵤ノ庄
宮本村ノ産ナリ
若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シテ
とあり、又、武蔵が晩年に書いた兵法書『五輪書』にも「生国播磨
の武士」となっている。
今は涸れて当時の面水はないが、この井戸で汲まれた水で生まれ
て初めて入湯したのである。 宮本武蔵顕彰会
逆さ椋の由来
此の椋の木は、樹齢数百年(推測五百年程度)と伝えられている。
今から、250年程前の宝暦年間と明治20年の二回の大火で村
の大半が焼失した。その時、この椋の木も地面より3.5米を残し、
無残な姿と化したが「根っこ」が強力で生きのびた。
その後、長い年月を経て、少しずつ新しい芽を吹き出した。
昭和五十年(1975)に、地域の住民によって補強・活性剤等を
施し、今日まで見守られている。現在では、根っこに負けない位の
立派な枝振りを見せている。
宮本武蔵の実状を知るのは、此の椋の大木である。 宮本武蔵顕彰会