鎌倉の思いで

鎌倉


由比ヶ浜や七里ヶ浜など素晴らしい海岸線もある。ここ鎌倉は、写真を撮る被写体に不足することはない。 江ノ電の駅で、鎌倉・江の島MAPを手に入れ早速地図で最も近い神社仏閣を散策してみる。  
 行ってみたら、こんなところ










極楽寺

極楽寺

七里ヶ浜や稲村ケ崎の海岸沿いを江ノ電でゆっくりパンフレットを見ながら降りる駅を物色。 そして、極楽寺で降りる。極楽寺の開山は良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)。 奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(1262)に北条業時(ほうじょうなりとき) に招かれて他宝寺住持となり、その後文永四年(1267)に極楽寺に開山として 迎えられた。極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となっる 北条重時(ほうじょうしげとき)が現在地に移転したといわれている。説明板より

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星の井(ほしのい)

星の井寺


天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸 「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聞き、 井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現れてた行基はそのお姿を仏像に 彫、当地にお堂を建立し安置した。説明板より

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御霊神社(ごりょうじんじゃ)

御霊神社


御霊神社は其の昔鎌倉近辺には大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉という 平氏五家がありこれら五家の祖を祀る神社として五霊神社が建てられ これが御霊神社となり祭神しいつしか武勇で名高い 領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。この 権五郎景政公の命日が九月十八日でこの例祭日には昔から、面掛け行列という 珍しい行列があります。これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる 特異な面十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財 です。此れにちなんで「福禄寿」含まれており此れにちなんで「福禄寿」 が宝物庫に安置されています。説明板より

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長谷寺(はせでら)

長谷寺


本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。  寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけた 樟の巨木な霊木から、二体の観音像が造られました。
一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが 込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり) に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。説明板より

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本覚寺(ほんかくじ)

本覚寺


寺には相応の形があるが、この夷堂(えびすどう)は、現代的な建屋になっている。 源頼朝の時代に、鎮守として造られ、ここに佐渡から帰った日蓮が滞在したとも云われている。 また、その後、それまで天台宗だったが日蓮宗へと改宗し、本覚寺を創建した。

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妙隆寺(みょうりゅうじ)

妙隆寺


当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤(つねたね)の子孫千葉大隅守平胤貞の 旧地で至徳二年(1385年)七堂伽藍(からん)を建立し妙親院日英上人を迎えて 開山した。応援三十四年(1427年)の冬第二祖久遠成院日親上人は廿一才の時に 当山に来られ堂前の池で寒百日間、水行などの修行を積み永享十一年(1439年) 京都に上り「立正治国論」の一書を足利六代将軍義教(のり)に献じて政道 を諌めようとしたが、これを怒った義教は日親を投獄し、陰惨な拷問でも屈しない 日親の頭に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切らせ日親の言葉を奪ってしまった。 後年「なべかむり日親」と呼ばれるようになった。世の為、人の為ならいかなる 苦難にも屈しない日親上人ゆかりの妙隆寺には、欅の一本造りの寿老人の尊像が安置されている。 人々の安全と健康を守り長寿を司る福神です。お供の鹿はその使いで、三千年の長寿を象徴している。説明板より

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宝戒寺(ほうかいじ)

宝戒寺


新田義貞の鎌倉攻めにより、この寺の南東にある「腹切りやぐら」で、 最後の執権・北条高時(ほうじょうたかとき)をはじめ北条一族八百七十余名が 自害したと伝えられている。滅亡した北条氏の霊を弔うため、また修行道場として、 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が足利尊氏(あしかがたかうじ)に命じ、北条氏の 屋敷があったとされるこの地に寺を建立させた。境内は四季を通じて花が咲き九月には 白いハギで埋め尽くされる「萩の寺」として有名。説明板より

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杉本寺(すぎもとでら)

杉本寺


天平六年(734)光明皇后の願いにより、行基菩薩が開山となられ自ら一刀三礼 され、十一面観世音菩薩を本尊として奉安し創建された。爾来坂東第一番の観音霊場 として日夜祈念修法されてまいりましたが鎌倉、室町の大火、兵火に遭い、江戸期に於いては 一時期無住の時もあり、後の明治排仏毀釈、又震災等により寺運も衰徹し七堂 伽藍も観音堂などを除き、悉く焼失倒壊したが全国の皆様からのご協力により再建できた。 説明版より抜粋

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銭洗弁財天(ぜにあらいべんざいてん)

銭洗弁財天


巳の年の文治元年(1185)、巳の月、巳の日、源頼朝に宇賀福神の 夢のお告げがあり。「西北の谷に湧き出す霊水で神仏を供養せよ。天下は太平になるであろう」 御告げの通りにこの地に湧水があったので、さっそく宇賀福神を祀り、その水で 神仏の供養を行ったことが、創建の由来。説明版より抜粋

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源氏山公園(げんじやまこうえん)

源氏山公園




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報国寺(ほうこくじ)

報国寺


足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた。開山は五山文学を代表する天岸慧広(てんがんえこう) (仏乗禅師)です。仏乗禅師は、中国より招聘された円覚寺の開山・無学祖元(むがくそげん) に師事し、のちに中国を渡って修業した高僧です。開山自筆と伝えられる「東帰集」や、自ら使用した 「天岸」、「慧広」の木印は国の重要文化財で、鎌倉国宝館に保管されています。孟宗竹が 有名で、竹の寺とも言われています。(説明板より) アルバム
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鎌倉大仏

鎌倉大仏


この大仏像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる 稲多野局が発起し、僧浄光が勘進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を 集積して成ったもので、国家や王族が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年 (1238)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので再び資金を集め 建長四年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を作って安置した。 原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右エ門や丹治久友の名が伝えられる。大仏殿は建武元年(1334) と慶安二年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが明應七年(1498) 海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正十二年(1923)大震災 には台座が崩れ仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正十四年(1925)台座を補強し 仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和三十五年、三十六年(1960−1961) の修理では、前傾している頭部を支える頸部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理 でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と仏体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの 利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。(説明板より) アルバム
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