武蔵の里(岡山県美作市)
やっと、武蔵の里へ来た!
宮本武蔵の駅前には三人の像がある。
武蔵や又八、お通たちの子供のころの様子だ。
宮本武蔵生誕地碑
讃甘神社から宮川を隔てた南側に立ってい
る。碑を中心にして約三〇坪(九○平方b)の
周囲を玉垣で囲んでいる。この碑は、明治四十
三年(一九一〇)に町内外の有志の人たちが、
宮本武蔵の遺跡があとかたもなく消えてなく
なることをおそれ、碑を建てて後世に伝えた
いと思い立った。碑石は江ノ原にあった自然石
を使い、下台石・中台石の上に、八尺の棹石を
建て、総高はニ丈(六b)あった。
ニ・四bの梓石を江ノ原から曳き出すのに、
小学校の児童も威勢よく参加した。総工費は
寄付金千五百余円、大正元年(一九一二)十
月除幕式を挙げた。
碑の正面には、旧熊本藩主細川護成侯染筆に
より「宮本武蔵生誕地」と刻まれ、裏面には、
現倉敷市出身の東宮侍講三島毅博士の撰文を
刻んでいる。 (パンフレットより)
昭和十二年(一九三七)六月二
十七日、朝日新聞連載小説「宮本
武蔵」を執筆中の作家吉川英治が
来村し、讚甘
小学校で記念講演を行った。
不朽の名作「宮本武蔵」によっ て、
一躍日本の、いや世界の宮本
武蔵となった。
「畜生っ...」
誰にとはなくこう
呪い
咳くと、やり場のない憤いきどお
りが、ふいに木剣をうならせて、
「えい!」
太い生木の幹を、パッと割った。
木の裂け目から白い樹乳がながれた。母の乳を思
いだしたが、じっと目を注いでいた。母のいない故
郷は、山も河もたださびしかった。
「おれを、この村の者は、なんで目の仇にするん
だ。! おれの姿を見れば、狼に出会ったようにこそ
こそ逃げてしまう.....」
彼は、この讃甘の山に、今日で四日も隠れていた。
ひる霞の
あなたには、先祖以来の一そして孤独の
姉がいる邸が望まれるし、すぐ麓の樹の中には七宝
寺の屋根がしずかに沈んで見える
だが、そのどっちへも、彼は近づき得ないのである。
(吉川英治著『宮本武蔵』より)。
讃甘
神社
宮本川に架かる宮橋のたもとにある。真向
かいは「武蔵の里五輪坊」の入り口である。
讃甘神社は、むかしより讃甘郷中の総鎮守
で「荒牧大明神」と呼ばれていた。
「武蔵幼年の時、荒牧の神社に遊んで、太鼓
を打つ有様を見て、二本の撥を以て左右の音
の等しきを感悟し、十手を以て二刀に替えた
り・・・」と、代々十手の達人の家に生まれた
宮本武蔵ゆかりの神社でもある。
青年武蔵像 碑 文
剣聖 宮本武蔵は天正12年3月 (1584年)この地 岡山県
英田郡大原町宮本において交.無二斎母.お政の二男とし
て生まれた
武蔵は13才の時播州平福で新当流有馬喜兵衛と戦い打ち
勝って以後諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29才で九州
舟島において佐々木小次郎と決闘する間60余度の勝負に一
度も負けたことがなかった
それ以後は天下を周遊して50才にして兵法を究め五輪
書 独行道などを書き上げまた書・絵・彫刻・工芸等に
も「二天」と称し、優れた作品を数多く遺して正保2年5月
(1645年)熊本の千葉城で62才の生涯に幕を閉じ弓削の里へ
葬られた
「武蔵」「二天」この剣聖と芸術家はまぎれもない同一人物
であり、まさに天才的資質に恵まれた万能の人で 現代人が
武蔵に学ぶところは多い
こうした史実を通じて町民の郷土史への理解を深め武
蔵の遺徳を後世に伝えるとともに大原町合併40周年を記念
してこの「青年期宮本武蔵像」を制作しこの地に建立する
ものである
制作は我が国彫刻界の重鎮で文化勲章受章者 日本芸術
院会員の富永直樹先生 題字は総社市 高木聖鶴先生の御揮
毫によるものである
この「宮本武蔵像」が末長く武蔵の里の歴史を伝えると
ともに町民の心に生き続けることを切に願うものである
平成7年5月19日 岡山県 大原町
武蔵生家跡
武蔵は天正十二年(一五八四年)に生まれ、
父を平田無二(無二斎)、祖父を平田将監と
いい、両人とも十手術の達人であった。こう
した武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の
頃から武術にたけており、十三歳の時、播州
平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以降
諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、二十九歳
で豊前国小倉船島(巌流島)での佐々木小次
郎との決闘など、六十度の勝負をし一度も
負りていない。武蔵は流儀を二天一流と称し、
その兵法を五輪書、兵道鏡に残した。また、
書・絵・彫刻・工芸を好み禅の修業を重ね
「枯木にもず図」等、今日重要美術品とされ
ている数々の作品を残して、正保二年五月
(一六四五)、熊本の千葉城にて六十二歳で亡
くなり弓削の里に葬られた。
昭和三十四年には、宅跡が「岡山県史跡」
に指定された。
宮本武蔵神社
佐々木小次郎の供養塔
宮本武蔵 一族の墓